カウンセライター沙良の綴方

カウンセラー(公認心理師)でライターの沙良が、仕事や日常のことを徒然に書き綴ります。

ニュースのハシゴ

 

もう結果を知っているのに

TVのスポーツニュースや、ネットのスポーツ記事をハシゴして

視聴、閲覧、すること、ないだろうか。

 

ふだんはちがっても、

サッカーやラグビープロ野球などで

大きな試合があると

ついつい、結果を知るだけでなく、各社の報道を見に行ってしまう。

そういう人は、きっと少なからずいることだろう。

 

ほかならぬ、わたしも

そうだ。

 

 

興味深いのは

同じ試合

同じ人物を取り上げているのに

伝え方が同じでないこと。

 

同じ人物の

同じインタビューなのに

特に、文字になると

「ちがう」のだ。

 

言っている内容、趣旨は

そう変わらないかもだけど

違った印象を受けることさえ、ある。

 

 

だから

 

ひとつだけを見て

それが「リアル」だと受け取るのは

ちょっと(どころでなく)アブナイかもしれない。

 

 

 

 

 

 

いくつもの情報を取りに行って

いろんな角度から知ろうとして

 

できれば「伝えられたこと」だけでなく

元の情報…一次情報にまで遡って

自分の五感でも、その情報を直接取るようにする。

 

 

 

伝えられた情報には

どうして、そのように伝えたのか

伝え手の意図が加わる。

どうしても、影響がおよんでしまう。

 

伝え方で

受け取り手の意識に、影響を及ぼすことだって

不可能ではないのだ。     (その最たるものが、広告よね。)

 

 

 

歴史的勝利を、あちらでも、こちらでも

視聴して、堪能したい

 

そういうハシゴも楽しいけど

 

 

それとはまた違った角度からの

報道のハシゴ

情報収集のハシゴ

も、大事なこと。

 

 

ライター目線で

「このインタビューが、こう報じられるんだ…」

と、別の楽しみ方もしている。

 

ルーティン化のチカラ

 

散らかった部屋

モノが溢れる

 

 

部屋は、その人の頭の中

 

デスクの上や、お部屋の中が、片付いていないと

あなたの頭の中も、ゴチャゴチャしていませんか? と

世のお片付け本やら何やらで、言われる

 

 

たしかに、とも思う

 

同時に、そうかな、とも思う

 

 

 

  ↑ お借りした画像  ( ※拙宅ではありません )

 

ここまでになる前に

なんとかならなかったのか

 

なんともならない、ときもある

 

「このままでは、よくない」

「かたづけなきゃ」

アタマでは、わかっていても

カラダや行動が、ともなわないのだ

 

 

こういうとき

モチベーションに頼ると

うまくいきにくい

 

気持ちでなんとかなるなら

とっくに、なんとかなっている

 

なんともならないから

モノが積み上がっていくのだ

 

 

 

では、どうすればよいのか

 

提案したいのは、しくみをつくることだ

一気にドカッと片付けても、またすぐ元に戻る

じわじわ、コツコツと

機械的に、片付けにつながる行動をするのだ

 

歯磨きするみたいに

短時間で

さっと

生活のルーティンのなかに

組み込む

 

いつやるか

なにを

どの程度やるか

自分にとって実行できる分量・タイミングを設定して

淡々と【 実行 】する

 

 

雨だれが石を穿つよりも

はるかに早く

 

オセロがひっくり返るみたいに

家の景色が変わっていく

 

 

年末年始の大掃除もよいけど

ルーティン化して

大掃除をしない年末年始も

良いよね

 

 

誕生日

 

誕生日は、特別な日だ。

 

 

新しい一年の始まりをお祝いする。

 

今日まで元気に生きてこられた。

これからも、素敵な毎日でありますように。

 

 

感謝と、祈願と。

 

そして、命を思う。

 

 

 

 

「今日」があるのは、命があるから。

 

その命は、両親から。

両親の命は、そのまた両親から。

連綿と命のバトンを受け継いできた。

 

両親やご先祖様の命も

たくさんの周りの人たちと支え合ってのもの。

 

一つの命は

たくさんの命から

なりたっているのだ。

 

 

 

 

だから、命を受け継いでくれたキミに

 

キミが生まれた日に

こう言おう。

 

 

おめでとう

ありがとう

 

 

いちご大福を英語で

 

息子氏は、今年から英語を習っている。

週に一度、NY出身の先生が来てくれるのが楽しみでならないらしい。

それほど単語やフレーズを知っているわけではないはず。

だけど、先生と話ができている模様。

 

コミュニケーションを楽しみながら

英語を使えるようになってくれたらいいな。

心底、そう願う。

 

 

先日、英語のクラスで学んだことを息子氏が話してくれた。

その話の流れで、和菓子の話になった。

餅は、mochiだよね。

大福は? daifuku?

 

じゃあ、いちご大福は?

 

いちご大福、って英語あるのかな?

 

そもそも、日本以外の国で、

いちご大福は知られているのか?

 

 

 

 

 

調べたら、どうも "strawberry mochi" という表現があるらしい。

"Mochi-Covered Strawberries" という言い方も、あるみたい。

 

あんこを使わずに、ショートケーキが餅でくるまれた

"Strawberry Shortcake Mochi" ってのも、あるようだね。

 

 

…え、"Mango Mochi" ?

そんなのもあるの???

 

 

そういえば、デパートにあった「フルーツ大福」のお店では

 

・パイナップル

・スイカ

・メロン

・みかん

・いちじく

 

なんてのも、あったよね。

 

 

 

話が広がっていく。

とりとめもなく、話していくのは楽しい。

 

 

↑ シャインマスカット大福!

 

 

 

で?

結局、英語でいちご大福って、どう言うんだ?

 

 

 

息子氏の(とりあえずの)結論

 

"ICHIGO DAIFUKU"

 

 

…まんまやん!

 

 

「たいせつ」にふれる

 

いま、感情が、動いた。

伝わるのだ。

心の振動数が上がった。

 

 

姿勢が前のめりになってきているのが

声から伝わってくる。

 

 

ああ、いま

「たいせつ」を話してくださっているのだな。

 

 

分かち合ってくださるのが

本当に嬉しい。

 

 

 

 

コーチングやカウンセリングのセッションで

ご相談者さんのお話をうかがっているとき

 

インタビューで著者さんのお話をうかがっているとき

 

 

声が変わる瞬間がある。

 

 

おそらく、ご本人は気づいておられないだろう。

けれど、溢れ出てくるのだ。

 

自分の「たいせつ」にふれる

いきいきと没頭する

こころがよろこんでいる

 

それが、伝わってくる。

 

 

コーチ/カウンセラーとして

ライターとして

立場はその時々で違えど

 

ご相談者さんや

著者さんの

「たいせつ」を共有いただける

 

ありがたい

 

 

ご時世柄か

自分の「たいせつ」をたいせつに扱えない

むしろ、体面的に、ないがしろにせざるを得ない事例を

多く耳にする。

 

 

そんなの、つらい。つらすぎる。

 

 

「たいせつ」を、たいせつにする

「たいせつ」を、たいせつにできるよう、ささえる

 

そういう選択をしていけると、素敵よね。

お互いに。

 

そのための一歩。

まずは、自分から。

 

 

ジブンシダイ

 

自分次第なのだ。なにごとも。

 

人のせいにできないのは、辛い。

うまくいったら、ドヤーって気持ちを味わえるけど

うまくいかなかったら、自分を否定されたくらいに打ちのめされる。

 

 

自分は、悪くない。

自分は、○○のとおりにしただけ。

悪いのは、○○なのだ。

むしろ自分は、○○の犠牲者なのだ。

 

そう思えば、少しは心が救われるのかもしれない。

 

でも、それでは

いつまでたっても、自力では

うまくいかないし

しあわせにもなれない。

 

他人次第の人生。

 

 

それでいいのか?

 

 

 

 

自己責任

自分次第

 

厳しさを伴う

覚悟が要る

 

でも、自分の人生を

自分次第で如何様にも切り拓いてゆける

 

 

それすらも

その選択すらも

 

ジブンシダイ

 

 

 

串に刺さった干し柿に仰天した話

 

 

 

飾りには、それぞれ意味がある。

 

そうと知っていても、見慣れないものは、

「なんでこんなことしてるの?」と、つい思ってしまう。

 

 

大阪の、あるお宅にうかがって

玄関先に飾られた鏡餅を見て、目を疑った。

 

鏡餅の飾りに、干し柿がぶっ刺さっているのだ。

 

 

↓ こんな感じ

 

 

関西圏では、よく行われていて

一説によると、三種の神器に見立てた飾り付けなのだとか。

 

鏡餅は、鏡。

橙が、勾玉。

剣が、串柿。

 

 

串柿自体にも、意味がある。

 

「かき」という音は、「嘉来」

つまり、嘉いこと、おめでたいことが来る、という意味に通じる。

 

串柿の見た目も、財や宝が串で刺したように集まる、ところを

彷彿させる、ということらしい。

 

 

なんと、串柿の個数にも、意味があるのだそうだ。

 

記事冒頭の画像にある

戦闘力強そうな、長い串柿には

10個の柿が並んでいる。

 

2 - 6 - 2 のフォーメーションだ。

 

いつも にこにこ (2個・2個)

仲睦まじく    (6個)

 

ということ、らしい。

 

 

近年は、コンパクトなマンション住まいの方などに合わせて

小ぶりの串柿も出回るようになったそうで

こちらは、5個。

 

単に、半分のサイズにしただけか、とナメてはいけない。

 

 

一人ひとり  (1個・1個) が

みな     (3個)   幸せに

 

という意味が込められている、というではないか。

 

 

 

鏡餅の正面に垂らした昆布といい  (よろ昆布)

縁起物には、おめでたい意味づけが多い。

 

だじゃれというと、しょうもない感じに聞こえてしまうけど

言霊、なのだよね。

 

 

 

ハロウィーンが終わると、街が一気にクリスマス化する。

その横で、別の赤白が並び始める。

それらと一緒に、串柿もまた並ぶのだろう。

 

 

 

昨日、干し柿栗きんとんなるお菓子を食べた。

干し柿の中に、栗きんとんが入っていた。

 

この栗きんとんも、おせち料理でよく見る「栗きんとん」とは

ちょっと(どころか)趣が異なる。

 

↓ まさに、コレ

 

 

柿と栗。秋の味覚。

 

美味しかった…けど、次は

別々に食べたいかな。